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前回では、風流の何たるかを述べさせていただいたが、風流という形の無いものを具体的に捕らえることは非常に難しいことだ。誰も水とつかむことは出来ない。
風流とは、非常に抽象的で硬さもやわらかさも無い言葉であるのだ。

しかし、風流といえば誰もがニュアンスで捕らえることは出来る。そのニュアンスで十分だろう。100%理解することは、100%実行できることではないということだ。
50%の知識があれば、100%知るために努力しようとするのが最も美しい形だ。
風流は知識ではなく、それを求めようとする欲動である、その旨を述べた人もいた。

私達は日本人である。
日本人は世界中で一番風流な人種といえるだろう。
それはなぜか、それを今回述べていこうと思う。

まず、日本人が風流な人種である理由のひとつは、日本人が今までに受け継いできた文化がそうさせる。
まず、平安時代では言葉の時代だった。
平安時代では、言葉のやり取りで恋が行われていた。
趣のあることである。

そもそも、生活自体が風流であった。というより、その当時の生活が風流の対象であるのだろう。美しく生活したいという願望のベクトルは平安時代に向けられている。
しかしなぜその時代の生活が「風流」と捕らえられるのだろうか。

それは、その当時の生活文化が、日本人の生活感情にとって「ベスト」であったからだ。平安時代の前〜中期ほどになるが、当時は遣唐使が停止された後の文化である国風文化が最も栄えていた時期である。国風文化とは、読んで字の如く、国の風土に似合った文化である。
そのため、その当時の文化は、「最も日本的な文化」であったのだ。そういうことがあったからこそ、平安時代の文化は「日本的」であり、「国風」であったのだ。

そして、第二の理由に、自然に対する特別視だ。
日本では、自然物を美しく感じ、それを愛しむ心を持っている。
中国人にも一部見られていた傾向ではあるが、現在の中国では、それは見る影も無い。

これは私の体験なのであるが、姫路では姫路城周辺で「観月会」という月見が行われる。そのとき、このイベントにつられた外国人も来るのであるが、皆がざっと月を見たとき、いっしょにいたオーストラリア人も同様にその方向を向いた。
日本人は一様に「キレイだなぁ」などと、詠嘆の言葉を漏らすのだが、オーストラリア人は、その方向に一体何があるのか分からなかったという。
後になって、そのオーストラリア人からは、「一体なぜ皆はあっちを向いていたの?」と聞かれたが、「月を見ていたんだ」と言っても、理解していないようであった。

このことから、外国人には、「月を見る」という風習が無いことが明らかである。
星を見るようなところは多くとも、月は「そらに浮かんでいて当たり前」という考えのもと外国はあったため、日本のように月を美しく思う国は少ないのであろう。

こんなことから、外国人に比べ、日本人は「風流な人種」といえる。
日本人の持つ独特な美的感覚は、どの外国人もなかなか持ち合わせてはいないだろう。それを捨てるなんてとんでもない話である。

私の言わんとすることは、結論を言えば、「風流に生きろ」なのだが、もちろん平安時代のような暮らしをしろという意味ではない。
日本古来の美しさを忘れてしまい、流れに流され、私を含む皆が慎ましさを忘れてしまわないかどうかが不安なだけだ。
可愛さで部長に負けた、私のドメイン。

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