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戦争時代、手紙や出版物はいわゆる検閲を受けてから、対象に渡されたり、出版許可されていた。また、大日本帝国憲法では、基本的に表現の自由は完全に認められておらず、法律の範囲内でのみの自由であった。

しかし、一部でその検閲が残っていることは、ご存知であろうか。
もちろん一般の出版物では、その検閲は認められていない。現在は、「検定」という名前で存在している。それが、「教科書検定」だ。
それは、教科用図書、つまり教科書の内容が、教科用図書検定基準に適合するかどうかを、文部科学省が検定する制度のことであって、それに不合格の場合、教科書としての販売が許可されない。
つまり、考えようによっては政府の意図に反している教科書はすべて、教科書検定で切り捨てることが出来る。教科書とは、未来の日本を担う人物を育てるのを支えるのに最も重要な図書であり、最も影響力の大きな図書であることは間違いないだろう。
最近の若年層は、評論図書を読む機会が少ないというので、なおさらだ。
さらに、日本の教科書では、日本の黒歴史を教えていないと、周辺諸国からの苦情もある。凄惨な過去を繰り返させないためには、「未来」に正しい「過去」を覚えさせなければならないはずである。

なお、この教科書検定だが、憲法第二十一条第二項に置いて、明記され絶対的に禁止されていることは、憲法本文より抜粋。
「検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない。」
これを見ていただければ一目瞭然であるだろう。
なら、企業の出版物に分類される教科書の検閲はなぜ許されているのだろうか。
これは昔から論争していたのだが、最高裁の判決、
「検定に不合格したものを出版し、販売することは禁止していないために、検閲ではない」という判決を下した。
確かに、そうであるといえばそうである判決なのだが、どうしても気になるのが教科書検定の存在自体である。

そもそも、一般の販売を許可するのであれば、なぜ教科書の検閲をするのか。
それは、生徒が使用するに置いて、不適切な表現が用いられていると考えるからであろうが、それは過去の問題を晒さないように言っている。
確かに小中学生及び高校生を対象に、性的な表現が多用される教科書は、使用されることがあってはならない。教師が選ぶといっても、セクハラ教師がわんさかいるこの社会において、教師の選択など全く意味を成さないものであるだろう。
確かにその点においては教科書は検閲すべきものになる。
しかし、本当にそれだけか。

最高裁の判決も、少し国寄りであると思えるような判決が多い。ただ、あくまでも法律と自分の良心に縛られた裁判官が最も良いと考えた判決がそうなのである。
しかし、この教科書検定を見ていれば、日本の「未来」に伝えなければならない「過去」の事実が、検定という黒い布で覆われているように思える。
だれかその布をはがすことが出来ないものであろうか。
可愛さで部長に負けた、私のドメイン。

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