障害者のために特別教育を行うために設立された「養護学校」。
最近は、養護学校の名を、「特別支援学校」としている学校が多いそうだ。人権や差別などの問題からも、そういう流れになっていると思われるところも見られる。
しかし、このようなものを見るたびに、私は表面的な名前さえ変えれば、本質的な中身までもを変えることは不可能だろう。
つまり、私が言いたいことは、養護であろうと特別支援であろうと、障害者の教育を目的にしていることは変わらない。
数学にも、不定方程式という方程式がある。解を絞ることの出来ない方程式なのだが、一方が本質的に不変であるならば、もう一方がその解を導き出すために変化しなければならない。
今回の場合、不変なものは障害者を教育する学校、そして解は完全な平等である。こうした場合、変わるべきものは非障害者の考えである。
私は、名前などどうでもいいと思う。
名前が変わればイメージを変化させることは可能である。今回のような人権や差別などの問題に直面したとき、イメージは最も重要なことで、それさえもが変わらなければ、問題は解決にすら向かわないだろう。
しかし、名前が変われども人々の意識はまず変わらない。障害者を支援するのは、障害者支援施設の職員だけではない。私達のような人々ももちろんそうであり、無駄な議論を進める国会議員もそれに含まれる。
私達のような人間は、直接的に支援できる。もちろん国会議員も直接的な支援は可能だ。しかし、国会議員は、間接的にも支援が可能になっている。そう、法律の整備である。
法律の整備により、障害者の暮らしやすい環境はいくらでも作ることが出来るだろう。意味も無いハコモノをバンバン作るような無駄金を障害者支援や老人の支援のために使おうという考えはないのだろうか。
一部のものにあったとしても、他には無いだろう。
その点を重要視している人間があまりにも少ないのだ。この高齢社会においてもだ。
さらに、人権などの問題を考えた際に、我々はそういった問題に直面することは少ない。私達日本人は、基本的に単数民族国家である。北海道のアイヌ民族などの部落差別はあったものの、民族差別などの意識は非常に薄い。
かつてのアパルトヘイトなどから考えてみても、その点においての差別は非常に小さいものだ。日本人の意識もほぼゼロに近い。
国際連合などにも人権保護機関はある。
国際的な人権問題が沢山あるからであろう。インターネットという最高の情報機関を用いたとしても、この世界にある人権問題すべてを知ることは不可能だと思う。
日本では薄らいできた女性差別も、世界にはまだまだ溢れている。
貴方の考える人権とはなんだろうか。
人が平等に生きることの出来る社会か。
人がともに支えあうことの出来る社会であろうか。
それらは実に美談であることこの上無い。しかし、実現が不可能であることは、誰だって知っている。生きている上で人が人の上にいることは誰だって実感できるし、自分が誰かの上に立っていることも、もちろん分かるだろう。
それは、マウリッツ:エッシャーの無限階段のようにそれぞれが支えあっているのであればそれはまだ可愛いものだ。
しかし、本当に社会は階段なのだ。全く平等でない社会なのだ。
そのため社会主義は崩壊する。不平等を平等にしようとするからだ。限界を越えてしまったためだ。
つまり、差別をなくすのは、限界の超越として考えると不可能である。
人間は、そういう存在であるのであろう。
可愛さで部長に負けた、私のドメイン。最近は、養護学校の名を、「特別支援学校」としている学校が多いそうだ。人権や差別などの問題からも、そういう流れになっていると思われるところも見られる。
しかし、このようなものを見るたびに、私は表面的な名前さえ変えれば、本質的な中身までもを変えることは不可能だろう。
つまり、私が言いたいことは、養護であろうと特別支援であろうと、障害者の教育を目的にしていることは変わらない。
数学にも、不定方程式という方程式がある。解を絞ることの出来ない方程式なのだが、一方が本質的に不変であるならば、もう一方がその解を導き出すために変化しなければならない。
今回の場合、不変なものは障害者を教育する学校、そして解は完全な平等である。こうした場合、変わるべきものは非障害者の考えである。
私は、名前などどうでもいいと思う。
名前が変わればイメージを変化させることは可能である。今回のような人権や差別などの問題に直面したとき、イメージは最も重要なことで、それさえもが変わらなければ、問題は解決にすら向かわないだろう。
しかし、名前が変われども人々の意識はまず変わらない。障害者を支援するのは、障害者支援施設の職員だけではない。私達のような人々ももちろんそうであり、無駄な議論を進める国会議員もそれに含まれる。
私達のような人間は、直接的に支援できる。もちろん国会議員も直接的な支援は可能だ。しかし、国会議員は、間接的にも支援が可能になっている。そう、法律の整備である。
法律の整備により、障害者の暮らしやすい環境はいくらでも作ることが出来るだろう。意味も無いハコモノをバンバン作るような無駄金を障害者支援や老人の支援のために使おうという考えはないのだろうか。
一部のものにあったとしても、他には無いだろう。
その点を重要視している人間があまりにも少ないのだ。この高齢社会においてもだ。
さらに、人権などの問題を考えた際に、我々はそういった問題に直面することは少ない。私達日本人は、基本的に単数民族国家である。北海道のアイヌ民族などの部落差別はあったものの、民族差別などの意識は非常に薄い。
かつてのアパルトヘイトなどから考えてみても、その点においての差別は非常に小さいものだ。日本人の意識もほぼゼロに近い。
国際連合などにも人権保護機関はある。
国際的な人権問題が沢山あるからであろう。インターネットという最高の情報機関を用いたとしても、この世界にある人権問題すべてを知ることは不可能だと思う。
日本では薄らいできた女性差別も、世界にはまだまだ溢れている。
貴方の考える人権とはなんだろうか。
人が平等に生きることの出来る社会か。
人がともに支えあうことの出来る社会であろうか。
それらは実に美談であることこの上無い。しかし、実現が不可能であることは、誰だって知っている。生きている上で人が人の上にいることは誰だって実感できるし、自分が誰かの上に立っていることも、もちろん分かるだろう。
それは、マウリッツ:エッシャーの無限階段のようにそれぞれが支えあっているのであればそれはまだ可愛いものだ。
しかし、本当に社会は階段なのだ。全く平等でない社会なのだ。
そのため社会主義は崩壊する。不平等を平等にしようとするからだ。限界を越えてしまったためだ。
つまり、差別をなくすのは、限界の超越として考えると不可能である。
人間は、そういう存在であるのであろう。
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