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この前、新聞をパラパラ読んでいると、目にとまった見出しがあった。
それが、「満足死」に関することだった。満足死とは、死ぬ直前までベットに寝ていないで、元気に動き回るということであって、満足して死ぬことが出来るために、そういう名前がついている。
それが、なぜ目にとまったかというと、以前読んでいた小説の内容に似通ったところがあったからだ。それは、「破裂」という小説だ。満足死を厚生労働省がすすめることが主な内容となっている。
満足死についての記述はこうだった。
「満足死とは―ベッドに寝たきりにならず、死ぬ直前まで仕事をし、満足して死ぬことが出来る。」とまぁ、上に書いた文とあまり変わり栄えしないのだが、こういうことだ。
ここに少し疑問を抱く。

まず死ぬ直前まで仕事をする、というところ。
死ぬ直前まで仕事をすれば満足なのか。
日本人は「労働民族」だ。働くことが何をする時間よりも多い。また、「過労死」という言葉は、外国のどの国でも訳することが出来ない。つまり、英語圏に行って「KAROSHI」という言葉が、伝わるかはどうかは知らないが、英語として用いることが出来る。用いる機会など現れないだろうが。
仕事=満足という考えは、そうそう多い考えではないはずだ。
少なくとも、生きるための労働に生きがいを見つけている人がいることから分かるはずである。

もうひとつ。
寝たきりになっているのが不満なのか。
仕事をしているよりも、家族に触れ合う時間が増える。
確かに、家族に迷惑をかけて、あまりいい雰囲気とはいえないかもしれない。しかし、働き続けて家族と触れ合う時間が少なすぎても困ることだ。

その満足死だが、「破裂」中では「ぴんぴんぽっくり」という言葉によって表されている。あまりいい響きではないものの、これがやはり一番よい国の体制なのだろうか。
今の日本の問題のひとつに「少子高齢」がある。最早、少子高齢「化」社会からは脱出した。少子高齢社会なのだ。既に穴に落ちてしまっている。
「ぴんぴんぽっくり」という考え方は、必然的に「早死に」につながっていく。平均寿命が馬鹿みたいに伸びている日本だが、今から早死にさせる方法が見つかるのか。
人口ピラミッドは、釣鐘型を経て、つぼ型へと移行した。いずれ、逆ピラミッド型になりそうで恐ろしいことだ。
しかし、かといって、だ。
早死にすれば人口ピラミッドが、ピラミッド型に戻るとは限らない。「少子」という問題が残されている。「高齢」のみが削除された少子高齢は、ただの「少子」になってしまう。
つまり、人口の激減が考えられる。

高齢よりも、難しい問題が結局残されることになる。
打破する解決策は、未だ見つからない。
可愛さで部長に負けた、私のドメイン。

アメリカが、日本の従軍慰安婦問題に対し、公式謝罪を求める決議案が下院外交委で可決した。従軍慰安婦とは、日中戦争や太平洋戦争中、朝鮮や日本などから兵隊のセックス相手として動員された女性達のことであり、特に朝鮮やシナからは強制連行されたということが問題になっている。そのための公式謝罪を求める決議案である。
これからの日本の動向が世界で注目されるだろう。
アメリカでこの案が正式に可決すると、日本がどう動くかによって、世界からの日本の考えが読み取れるだろうと思う。日本の上層部はどう考えているかは知らない。
アメリカの強い意思にしかれ、謝罪する可能性も、無いことは無い。
私は、謝罪する必要性は無いだろうと思う。可決しようと、無視すればよい。植民地支配しようとする先の地の人間は、既に支配下に置いているもの同然として考えている。しかし、そのうちに何が起ころうと、戦争に埋もれてしまっている。
大きなことはもちろん問題となる。
ベトナム戦争でアメリカがばら撒いた枯葉剤。日中戦争で行った日本の大虐殺。
これらは歴史の表に表れた。事件が大きかったからだ。
ほんの小さな事件や、各地で起こった虐殺は歴史に埋まってしまっている。

しかし、考えても見てほしい。
従軍慰安婦問題について謝罪をせよというアメリカではそのような問題は無かったのであろうか。問題にはなっていないだろうが、軍隊は大体慰安施設を保持しているとされている。

それに、アメリカは謝罪させるだけでは無いだろう。
自分も謝罪せねばならないことを沢山抱えている。
たとえば、核兵器の投下だ。
実験段階であり、その威力を自分の目で、そして世界中にその威力を見せ付けたかったからだ。
そのために、何十万という人々が亡くなった。
それに対し、パールハーバーの演説で大統領は必ずこういう。
「日本への核兵器の投下は、謝罪する必要は無い」
アメリカ人の「リメンバー・パールハーバー」の思想から考えれば必要の無いことだろう。しかし、自分の犯した罪を認めないのであれば、それは思想を越えてただの横暴、悪く言えば「駄々っ子」だ。
さらに言えば、京都議定書はアメリカの批准が無いために足並みがそろわない。
ユニテラリズムも立派なことであろう。しかし、こういう場ではただのわがままにしかならない。

先人は良い言葉を残した。
「人の振り見て我が振りなおせ」
他人の行動を見て、自分の行動を見直せという言葉である。
他人に謝罪を強いるのであれば、自分の非を無くしてから謝罪をさせよ。
たとえこの問題が捏造であろうと、そうで無かろうと、その事実は分からない。
しかし、アメリカの公式の謝罪があるまで、安倍首相は謝罪に動く必要は全く無い。
可愛さで部長に負けた、私のドメイン。

今、牛肉加工卸売業者の「ミートホープ社」の牛ひき肉偽装問題が世間で大きな波紋を呼んでいる。池へと投げ入れられた石はどんどんと増えてゆき、波紋は波紋を呼んでいる。
ひとつ、不祥事が発覚すれば同じ企業からは大体大量に不祥事が湧き出てくる。イモヅル式とも言われるが、よくもそこまで不祥事を溜めておくことが出来たな、と感心するところもある。
思うに、不祥事がひとつ生まれれば、それは企業に蓄積され、不祥事が企業のキャパシティを越えたとき、それは世間に出てしまう。
そこまで溜まるまでになぜ内部告発が無いものか、とは思うものの、やはり自分の立場を考えたとき、内部告発をすると自分の足元は脆くも崩れ去る。何がそういう社会を築いているのか。やはり、縦社会の厳しい国である。上司の言うことには逆らえないという権力が作り上げてしまったのだろうか。

ミートホープは、直訳すれば「肉の希望」。
肉の希望は、不祥事によって崩れ去る。最近の企業はどうも見通しが悪い気がする。企業独自の開発を隠すのはいいが、それに伴って不祥事までもが隠されている気がしてならない。
メリハリを付けてガラス張りにしてほしいこともある。
またミートホープの不祥事としては、水で肉のかさまし、ひどいものは他の企業から「最後のゴミ箱」と呼ばれるまでの取引をしていたようだ。
10年の間、そのような取引が行われていたのだとか。

この前の不二家での件もあったが、やはり企業の不祥事は消えない。
もちろん、不祥事は企業だけに尽きない。
さらに言えば、問題なのは不祥事が発覚するということではない。
隠し続けることがひどいのだ。もちろん内部告発は以上に述べたように、企業内では「異端」とされるだろう。

もちろん、不祥事は企業だけに限らず政府にも溢れている。
政府のキャパシティが大きすぎるのか、それとも溢れてももみ消されているのか、国家の不祥事はイモヅル式に湧き出ることは見ない。
可愛さで部長に負けた、私のドメイン。

戦争時代、手紙や出版物はいわゆる検閲を受けてから、対象に渡されたり、出版許可されていた。また、大日本帝国憲法では、基本的に表現の自由は完全に認められておらず、法律の範囲内でのみの自由であった。

しかし、一部でその検閲が残っていることは、ご存知であろうか。
もちろん一般の出版物では、その検閲は認められていない。現在は、「検定」という名前で存在している。それが、「教科書検定」だ。
それは、教科用図書、つまり教科書の内容が、教科用図書検定基準に適合するかどうかを、文部科学省が検定する制度のことであって、それに不合格の場合、教科書としての販売が許可されない。
つまり、考えようによっては政府の意図に反している教科書はすべて、教科書検定で切り捨てることが出来る。教科書とは、未来の日本を担う人物を育てるのを支えるのに最も重要な図書であり、最も影響力の大きな図書であることは間違いないだろう。
最近の若年層は、評論図書を読む機会が少ないというので、なおさらだ。
さらに、日本の教科書では、日本の黒歴史を教えていないと、周辺諸国からの苦情もある。凄惨な過去を繰り返させないためには、「未来」に正しい「過去」を覚えさせなければならないはずである。

なお、この教科書検定だが、憲法第二十一条第二項に置いて、明記され絶対的に禁止されていることは、憲法本文より抜粋。
「検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない。」
これを見ていただければ一目瞭然であるだろう。
なら、企業の出版物に分類される教科書の検閲はなぜ許されているのだろうか。
これは昔から論争していたのだが、最高裁の判決、
「検定に不合格したものを出版し、販売することは禁止していないために、検閲ではない」という判決を下した。
確かに、そうであるといえばそうである判決なのだが、どうしても気になるのが教科書検定の存在自体である。

そもそも、一般の販売を許可するのであれば、なぜ教科書の検閲をするのか。
それは、生徒が使用するに置いて、不適切な表現が用いられていると考えるからであろうが、それは過去の問題を晒さないように言っている。
確かに小中学生及び高校生を対象に、性的な表現が多用される教科書は、使用されることがあってはならない。教師が選ぶといっても、セクハラ教師がわんさかいるこの社会において、教師の選択など全く意味を成さないものであるだろう。
確かにその点においては教科書は検閲すべきものになる。
しかし、本当にそれだけか。

最高裁の判決も、少し国寄りであると思えるような判決が多い。ただ、あくまでも法律と自分の良心に縛られた裁判官が最も良いと考えた判決がそうなのである。
しかし、この教科書検定を見ていれば、日本の「未来」に伝えなければならない「過去」の事実が、検定という黒い布で覆われているように思える。
だれかその布をはがすことが出来ないものであろうか。
可愛さで部長に負けた、私のドメイン。

我々が日々用いる言葉の中に「才能」という言葉がある。意味は誰もが知っている通りだ。辞書によると、「物事をうまくなしとげるすぐれた能力。技術・学問・芸能などについての素質や能力。」という意味らしい。ニュアンスで理解している我々の考える意味とほぼ一致するだろうと思う。
そこで、才能とは何か。

才能とは何か、といわれれば、上にある文章通り、何かに長けた能力のことである。ということは、才能は人によって必ず違うものを持っているということとなる。
それは、人それぞれ長けている対象が違うということで納得していただけるであろう。
しかし、私はこうも考えられるであろうと思う。
「才能とは、ただ一つ努力できるか否かであり、その対象に対し、どれだけの対価を支払ったかによって変動する。」
極めて分かりづらい説明文ではあるが、簡単にすると、才能=努力であると思う。
しかし、これでは説明のつかない事態が山のように発生する。
たとえば、作曲家のショパンがいた。この例で取り上げたのは、ショパンが好きだからであるが、現存するショパンの曲で最も古いものは、ショパンが7歳のときに作り、出版したものであるとされる。

こういったことは、才能=努力では説明のつかないこととなる。
遺伝等も考えても、才能とは、初めてそれに触れたとき、高い技術を見せることが出来ることであると考えると、努力は無駄な存在として捨てられかねない。

私も、「努力は大切だ。何人も欠かしてはならない」とは言わない。
努力したくないものはしなければ良いし、したいものはすればいい。それが資本主義の競争社会の一角であると考えられる。
エジソンは「天才とは、1%のひらめきと99%の努力であるという言葉を残した。と、されている。実際にはどうか分からないが、最近エジソンの残したこの言葉は誤りであって、
「99%の努力があっても、1%のひらめきが無ければ無駄である。」と言ったという説もある。確かに正しいことだ。何もかもを100%にすることは絶対に不可能ではない。あることを極限まで高めるためには、努力と才能が必要だろうと思う。

また、誤りといえば、この割合も誤りだと思う。以下の数字は変動するだろうが、私は、30%の努力と40%の才能、そして40%の人間性だろうかと考える。
たとえ、自分が完全に努力したとする。30%の才能もある。しかし、性格が曲がっていれば、失敗するかもしれない。
現に私は昔ピアノのコンクールで、30%の努力を尽くした。才能も30%ほどはあるといわれた。しかし失敗してしまった。
緊張により、手が震えていたからだ。
やはり、成功の大きな要因は人間性にあるだろうと思う。

努力も才能も大事だが、結果は人間が手の付けられない性格に逢着してしまう。
そこをどのように補うことが出来るのかは、貴方次第だろうとおもう。
方法によっては、この割合はいくらでも変動すると思われる。
可愛さで部長に負けた、私のドメイン。

時計は刻一刻と進んでいく。
それは人間が勝手に定め、人間が勝手に服従しているだけのものなのだが、それは絶対であり、取り返しのつかないものとなり、現在では「時は金なり」と呼ばれるようにまでになっている。
そもそも、時計という存在、つまり人々が時間という概念を気にするようになったのは、紀元前2000年に、影の方向によって時間を判断する日時計が存在していたということから、古代より人間やそのほかの生物には時間的感覚があったに違いない。
また時間はしばしば哲学の対象ともされ、時間は様々な捉え方をされる。

たとえば、時間は宇宙の創造以前より存在していたのか。だとすると、時間は無限であると考えられる。しかし、完全な「無」の世界に時間は存在するのだろうか。
では時間が無では存在しないと考える。その考え方は二通りであり、時間は起源こそあるものの、無限であると考えるのが半直線形時間存在であり、宇宙と我々の生命は無限に終わらないとするものだ。もし、無に時間は存在しないと考えるのであれば「閉じた宇宙」の考えに反するものとなる。
もうひとつ、線分形時間存在であるとすれば、時間は完全な有限であることとなる。宇宙が存在してから、宇宙が消滅するまでの時間が、すべての時間である。正に1兆の1兆乗のように果てしない天文単位になりそうであるが、有限であることに間違いは無い。これは、「平行な宇宙」と「開いた宇宙」に反することとなる。つまり、すべてに適する時間は存在しないこととなる。すべてに適する時間は矛盾を生むこととなり、時間は二者択一となる。

今回は、時間についての追求ではなく、どうしたら地球の時間進行をとめることが出来るのか、だ。
そもそもなぜ時計を止めなければならないのだろうか。
たとえば、リアルタイムに進行するゲームが、最近増えている。最近でなくともファミリーコンピューターの時代からあった、「ポーズ」。つまり停止だ。
急用が出来た場合には、そのポーズを使い、急用を済まし、ゲームに戻ることが出来るという寸法だ。
つまり、ポーズは発生したなんらかの問題を、時間を進行させずに終了させ、その後に時間の進行を開始させるということだ。
地球でポーズを使うということはどういうことか。
それは地球に発生している何らかの問題を時間の進行なくして解決させ、そして再度時間を進行させる必要があるからだ。
地球の様々な問題は、ポーズを必要とするほど深刻となっているのは言うまでも無い。

今私達が生きている時間、私達の人生など宇宙の異常なほどの歴史から比べると、ちっぽけなものだ。いや、ちっぽけにも値しないはずだ。
ほんの小さなものでしかないのだが、私が生きているうちでは、何よりも重要だ。
経済学中では、人間は自己利益を合理的に追求する存在であるとされている。私達が人間として生きているうちで、最も良いと考える自己利益は「命が存在すること」であるだろう。つまり、たとえ短い歴史であっても、人間は今死ぬべき存在ではないはずである。

新たなエネルギーの開発も進む中、我々は異常気象と異常気温におびえて暮らしている。地球環境は、我々が普通と考える生活では改善しない。それは自分の生活を一度見直してみれば誰だって実感できるはずである。
世界の時計をとめることが出来る人間は存在しない。
しかし、環境の時計を巻きなおすことはいくらでも可能なはずだ。
迷っている暇は無い。大胆に時計を巻きなおせばいい。時計はとめられない。
可愛さで部長に負けた、私のドメイン。

障害者のために特別教育を行うために設立された「養護学校」。
最近は、養護学校の名を、「特別支援学校」としている学校が多いそうだ。人権や差別などの問題からも、そういう流れになっていると思われるところも見られる。
しかし、このようなものを見るたびに、私は表面的な名前さえ変えれば、本質的な中身までもを変えることは不可能だろう。
つまり、私が言いたいことは、養護であろうと特別支援であろうと、障害者の教育を目的にしていることは変わらない。
数学にも、不定方程式という方程式がある。解を絞ることの出来ない方程式なのだが、一方が本質的に不変であるならば、もう一方がその解を導き出すために変化しなければならない。
今回の場合、不変なものは障害者を教育する学校、そして解は完全な平等である。こうした場合、変わるべきものは非障害者の考えである。

私は、名前などどうでもいいと思う。
名前が変わればイメージを変化させることは可能である。今回のような人権や差別などの問題に直面したとき、イメージは最も重要なことで、それさえもが変わらなければ、問題は解決にすら向かわないだろう。
しかし、名前が変われども人々の意識はまず変わらない。障害者を支援するのは、障害者支援施設の職員だけではない。私達のような人々ももちろんそうであり、無駄な議論を進める国会議員もそれに含まれる。

私達のような人間は、直接的に支援できる。もちろん国会議員も直接的な支援は可能だ。しかし、国会議員は、間接的にも支援が可能になっている。そう、法律の整備である。
法律の整備により、障害者の暮らしやすい環境はいくらでも作ることが出来るだろう。意味も無いハコモノをバンバン作るような無駄金を障害者支援や老人の支援のために使おうという考えはないのだろうか。
一部のものにあったとしても、他には無いだろう。
その点を重要視している人間があまりにも少ないのだ。この高齢社会においてもだ。

さらに、人権などの問題を考えた際に、我々はそういった問題に直面することは少ない。私達日本人は、基本的に単数民族国家である。北海道のアイヌ民族などの部落差別はあったものの、民族差別などの意識は非常に薄い。
かつてのアパルトヘイトなどから考えてみても、その点においての差別は非常に小さいものだ。日本人の意識もほぼゼロに近い。
国際連合などにも人権保護機関はある。
国際的な人権問題が沢山あるからであろう。インターネットという最高の情報機関を用いたとしても、この世界にある人権問題すべてを知ることは不可能だと思う。
日本では薄らいできた女性差別も、世界にはまだまだ溢れている。

貴方の考える人権とはなんだろうか。
人が平等に生きることの出来る社会か。
人がともに支えあうことの出来る社会であろうか。
それらは実に美談であることこの上無い。しかし、実現が不可能であることは、誰だって知っている。生きている上で人が人の上にいることは誰だって実感できるし、自分が誰かの上に立っていることも、もちろん分かるだろう。
それは、マウリッツ:エッシャーの無限階段のようにそれぞれが支えあっているのであればそれはまだ可愛いものだ。
しかし、本当に社会は階段なのだ。全く平等でない社会なのだ。
そのため社会主義は崩壊する。不平等を平等にしようとするからだ。限界を越えてしまったためだ。
つまり、差別をなくすのは、限界の超越として考えると不可能である。
人間は、そういう存在であるのであろう。
可愛さで部長に負けた、私のドメイン。

本日、私の住む町では、祭りが行われた。浴衣祭りという、年に一度三日間にわたり行われる姫路市独自の祭りである。しかし、今年は、その祭りも二日間のみの開催となった。梅雨時で、雨の影響も少なからずあるのであろうが、ひとつ大きな理由として挙げられるのは、迷惑行為の多発である。
迷惑行為というものは様々なものが数えられる。花火はもちろん、大声で叫ぶなどの行為もまた、迷惑行為にされる。中でも最もひどいのが暴走族だ。
暴走族は、近年公式的な名称を「珍走団」とし、新規に加わるものを減らそうとしているようだ。

最近、活発なのが、徒歩暴走族、徒歩珍走団と呼ばれるものたちで、歩きながら自分達の組の名前を叫ぶという、既に暴走していないやはり珍走団としか呼べない集団も現れているようだ。もうこういったものたちを珍走団といわずしてなんと言おうか。恥じることはなはだしい。
そして、楽しみに来ている人たちにとって迷惑極まりないものである。暴走するなら人のいない山でして来い。それがイヤならばやめればいい。秩序を崩すものに自由を与えることが間違えている。弱者にばかり強い警官も、取り締まりを厳しくすべきだ。

私はこういったものがとても嫌いだ。偽善意識が強いからかもしれない。
しかし、許されるべきではないことは、誰もが理解しているだろうと思う。少なくとも、カッコイイと思って横行している珍走団以外は、だ。

さらに言えば、珍走団の横行を支持するもの、煽る者もすべて条例に違反しているとされる。つまり、そういった常識の無い者は片っ端から排除されていくということだ。
しかし、ここである問題が思い浮かんだ。
たとえば、アリで考えてみようと思う。
100匹のアリがいれば、そのうちの70〜80匹のアリはサボり、20匹程度のアリはまじめに働くという。その中から、サボりのアリを排除しても、また働きアリの中から分裂が生じるという。
つまり、人間に当てはめて見ると、実際にまじめにしている人は、8割かもしれない。しかし、その二割の不真面目を取り除くと、残りのまじめから、また二割の不真面目が発生するかもしれない。
どうしようもない、生物の習性であろうか、必ずそのようになるそうだという。
つまり、なんだかんだでバランスが保たれているとも考えられる。
しかし、そのバランスのために、8割の人間が迷惑を感じてもいいのだろうか。危険を感じてもいいのだろうか。そして、そのために怪我をする人間がいてもいいのだろうか。
どうも、そういう人間は、法を軽視する傾向にある。
法の厳しさを身をもって体感してほしいものだ。

チェーザレ:ロンブローゾの生来性犯罪人説ではないが、やはりそういう人間の価値観は、珍走団を貴く見るように思われる。
思考の時点での取り締まりは、憲法の良心の自由によって保護されているために不可能であるため、結成以前に潰すことは不可能である。
珍走団の消滅は、現段階では非常に難しい。しかし、行動に移している間こそ、最大のチャンスであるのだ。

私の価値観から見ると、法に背くものは嫌悪すべきだ。
可愛さで部長に負けた、私のドメイン。

体内時計という言葉を聞いたことがあるだろうと思う。
それは、実際に存在していると、研究によって発見されたという。
人間は、体内に25時間で一日という時計を所持している。そのため、ほぼ毎日同じ時間に起き、同じ時間に行動し、同じ時間に寝ることが出来る。毎日当たり前のことは、体内時計があるがために行うことが出来ているのだ。
これは、人間が進化してゆく過程において作られたものだろうと思われる。
素晴らしい進化であって、人間において最も便利な機関であるだろう。

体内時計は25時間で一周するのだが、なぜ人間はほぼ毎日同じ時間に起きることができるのだろうか。25時間ならば、毎日起きる時間は1時間づつずれることになってしまう。
なぜ、人間は24時間で毎日同じ時間に起きることができるのか。
それは、太陽の光が重要なカギを握っている。
人間は、太陽の光を見ることで、朝であると実感することができ、体内時計のネジを巻きなおすことが出来るのだ。つまり、逆に言えば太陽の光を見なければ体内時計のネジを巻きなおすことは出来ないということであって、光の当たらない真っ暗な洞窟で生活していれば、人間は毎日一時間づつ、起きるのが遅くなっていくという。

太陽の光は、体に有害であるということもあるのだが、こういった重要な働きも行うことがあるのだ。
体内時計のネジを巻きなおすことが出来ない、つまり太陽の光を浴びないということになってしまうと、生活のリズムが急変し、体調に異常をきたすという。
しかしながらどうしても太陽の光を浴びることが出来ないなどの場合は、強い光を浴びることによって、体内時計をリセットすることが出来るという。

つまり、人間が生きていくうえで、この地球と太陽の距離は、最高の距離だといえるだろう。太陽は、人間に命を与えた存在である。
可愛さで部長に負けた、私のドメイン。

6月も下旬を向かえ、暑さがさらに増してきた。暑さから家に出ないことはあまり良いことでは無いが、良いことでもあるというまた微妙なものだ。
オーストラリアでは、ある光線の存在が顕著であって、気をつける人も増えているようだ。それは何か。タイトルからも想像できるだろう。気がつく人も多いと思う。

そう、紫外線だ。

紫外線は、太陽から発せられる光線のうち、可視光線がある。可視光線は虹色、つまり七色に分かれるのだが、その際の紫よりもさらに外側にある不可視光線が、紫外線である。
太陽の光は主に三つの役割を果たしている。
世界に光を与えること。これは、可視光線の役割だ。
そして、熱を与えること。赤外線の影響だ。赤外線は電気ごたつなどにも用いられているが、それ自体に色は無い。あくまでも不可視光線である。
そして、今回の紫の外。紫外線だ。
紫外線は、主に殺菌の役割を果たす。さらに言えば、オゾン層を形成するのは紫外線である。紫外線によって分解された酸素原子が結びつきあいオゾンとなるのだ。

昔、紫外線は体に良いものとされていた。
確かに、体に良いものである。しかし、紫外線の危険度はある程度の段階に分けられ、全く危険度の無いもの、危険性の高いもの、最も危険なものだ。
当然である。
全く危険度の無いものについては、むしろ体によいとされており、カルシウムの生成を助長するとされている。
危険性が少しでもある場合は、あまり外出しないほうがよいだろう。約三分間、日光を浴びれば体には十分であると聞いたことがある。過ぎたるは猶及ばざるが如しである。

オーストラリアでは、子供には必ず、
「長袖を着ろ。日焼け止めクリームを塗れ。つばの広い帽子をかぶれ。」などということが言われ、子供を皮膚がんなどの病気にかからないようにするためにそういった運動が盛んに行われているようだ。
美しい町並みがある一方で、そういったこともあり、現在はとても大変な国となっているそうだ。

これらは、オゾン層の破壊によって問題が表面化した。そもそも、オゾン層が破壊されなければ、このような問題にはならなかったことだろう。
人類は、3mmという非常に薄い、層とは言いがたい厚さの膜に守られているのだ。
しかし、人類の発展に置いて、社会的倫理を無視し利潤を追求した結果が、ここにあるのだと思う。つまり、環境などいつか回復するだろう。未来の人間がどうにかしてくれるだろうといった考え、もしくは環境に対する考えなど全く無かったかもしれない。そういったことから、過去の人間、そして自分達に比があるとされる。
この問題を解決するのは非常に難しい。
オゾンの破壊の直接的な原因は、フロンだとされている。
オゾン層は、新たに作られないのだろうか。
フロンの禁止を世界的に行ってから、オゾンは徐々に回復しつつあるという。やはり、再生しているようだ。しかし、油断は禁物だ。オゾンは、別のものによっても分解される可能性も無いわけではないのだ。

人体に有害なオゾンだが、それによって人間が守られているとは、どこか皮肉な感じもする。
可愛さで部長に負けた、私のドメイン。

宇宙を探索することはロマンである。宇宙人は存在するだろうということもあり、やはり宇宙の探索は現在も引き続き行われている。
宇宙人とは、知的地球外生命体のことであって、地球の現在の人類と同じレベル、またはそれ以上のレベルを持つものを対象とする。
さまざまな探索方法があるのだが、地球外の生命体を探し出して、どのようにするかは知らない。ただ、探すことがロマンであり、楽しみであるのだろう。
地球外に何らかの生命体が存在する確立は、100%であるといえるだろう。そして、生命体のうち、現在の地球の人類と同じレベルの知識を持つものは、ほぼ100%であるらしい。つまり、その辺の星を探せばポロリと見つかるだろう。
宇宙は無限だ。無限のまま無限である。数学のように代数を置いたり、無限を有限にしたりせずとも、無限である。無限ということは、確立がもし0.00001%であっても、無限のうちに必ずひとつは存在することとなる。そういう考えだろう。
つまり、宇宙人は存在する。
太陽と地球の関係、地球の気温、大気、水、生命にとって大切な条件がそろっている星など、いくらでも見つかるはずだ。その発見に時間がかかっているだけだ。
宇宙が無限だからだ。

宇宙人が、もし地球と同じレベルの文明をもち、地球の考えと同じものを持つ場合、相手もこちらを探そうとしていることは間違いないだろう。
もしくは、最早こちらを見つけ、宇宙船にのり、地球に干渉しているかもしれない。
わたしも、眠かったのであまりハッキリとは覚えていないが、そのUFOらしきものを見た覚えがある。ハッキリと、UFOに見えた。本物だろうか。

もし、地球に来ていたのならば、その移動速度は光速を越えているということになる。太陽系外からきているのは間違いないので、最低でも何万年とかかって地球に来ているのだろう。
つまり、地球外には相対性理論を打ち破る何かを発見している。そして、それを実行し無視し、いわゆるワープという段階にまできているのではないだろうか。

地球が宇宙を庭とする日は、そう遠くないだろう。
可愛さで部長に負けた、私のドメイン。

兵庫県の姫路市夢前町。雪彦山を水源とする町の名を冠した夢前川。
先日、夜にその周辺を歩いていると、ぼんやりと黄色がかった緑の光がほのかに光っていた。蛍だ。日本各地の河川は汚染により蛍の数が激減したと聞く。最近は、蛍を取り戻そうとする動きがあるためにある程度の改善は見られたようだ。
蛍は水のきれいなところにしかすむことが出来ない。ゆえに、その美しさがあるのだろうと思う。
地元に鹿谷中学校という学校がある。校歌が、「水清き夢前ほとり」ではじまる。まだその歌詞に反しない川が、夢前にはあるようだ。

蛍というものは、昔から美しいものとされていたことは、清少納言の枕草子によって分かる。
「蛍の多く飛び違ひたる、また、ただ一つ二つなどほのかにうち光りて行くも、をかし。」とあらわされている。当時、一般的に蛍が美しいものされていたのか、それとも清少納言独特の美意識だったのかは分からない。
しかし、どちらにせよ昔より蛍は誰かに美しいと思われていたようだ。

また、蛍の話だと、関東の蛍と関西の蛍の点滅の感覚が違うという。
関西の蛍はせっかちで、点滅の感覚が短いそうだ。どうしてそうなったのかは分からないが、遺伝とすんでいる種の違いにもよるだろう。

蛍は、また来年も見ることが出来るだろうか。
可愛さで部長に負けた、私のドメイン。

人間の性格は人それぞれである。それはまた、個性により変化していることから、性格は個性に強く依存していることが分かる。
しかし、人間の性格を一般化することも出来るだろう。必ずどの人間にも通じていることは、「喜怒哀楽」だ。四字熟語として存在しているために、それはよく分かるだろうと思う。

人間の性格は難しい。それは、今まで生きてきただけでも身にしみて実感できただろう。考え方の数だけ、性格があり、性格の数だけ人間がいる。微妙に異なった性格は、全く同じものなど無いといえよう。

ここでクローン人間の問題についてあげる。
クローン人間とは、クローン技術を人間に転用し、人間をいわば「栽培」のように育てる、といったものだ。偏った見方ではある。
クローン技術の問題は、命が誕生する最初の段階、つまり受精のときに人間の温かみの無いことであることがだ。しかし、それはキリスト教の人間は神の被造物であるという考えに基づくものであって、確実に倫理に反しているか、といえばそうではないようにも思える。
それに、性格はベースとなる人間性と、それからの教育などの環境によって、大きく変動すると言ってもよいだろう。実際、環境が変われば性格はコロコロ変わる。子供のうちでなくとも、それは確実に起こっていることだろう。
つまり、クローン人間によって、性格までが100%一致する人間は存在しないことになる。遺伝子の優劣から考えても、完全に一致した人間は作ることが出来ないのではないだろうか。
どちらにせよ、完全に同一の「性格」をもつ人間のペアは、ありえないと思われる。

私は人間の性格が、しばしば水のように思える
水とは、いつもサラサラと流れているものだ。
清いものはいつまでも清く、汚れた環境にいたものの性格は、だんだんと汚れてくる。また、正面から強いエネルギーで衝撃を与えれば、それに反発する強い力が水に働き、やわらかく触れれば、さらりと手をすり抜けていく。
人間の体の三分の二は水によって出来ているというが、やはり人間と水には共通点がある。
それは、このような性格にまで及ぶものであると実感した。

人間の性格は、今でこそ多様化している。
ここでifを考えるのにはあまり意味の無いことかもしれないが、もし完全なクローン人間を、完全に同じ環境で育てることが出来たのならば、それらは全く同じ性格を持ち、全く同じ形質を発揮するのだろうか。
その点は、実に興味深いものだと思う。
可愛さで部長に負けた、私のドメイン。

世界一長い曲といえば、エリックサティの「ヴェクサシオン」ということで有名だ。
ちなみに、このブログでは以前に世界一長い曲はヴェクサシオンではなかったと、ジョンケージのASLSPだ、と紹介した。現在まだ演奏が終了していないため、認められていない。

今回はその逆を突いてみようと思う。
つまりは、世界一短い曲だ。

まず、ギネスブックに載っているものから紹介しよう。

ナパーム・デスの楽曲、「You Suffer」という曲だ。
演奏時間は約一秒。
現代音楽の極みともいえるだろう。
また、ナパーム・デスはこの曲がすきなのだろうか、ライブでは頻繁に演奏するそうだ。

さらに、S.O.Bの楽曲で「Momo」という楽曲も、一秒のみ演奏するそうだ。

近代の作曲家、ジョンケージは、無音の「4分33秒」という曲を作っているのだが、「0分00秒」という曲も作曲しているそうだ。
つまり、楽曲としての枠組みがまったく無い曲だ。
曲として扱ってよいのだろうかとも思うが、演奏例もあるそうだ。

世界の音楽は、まだまだわからない。
可愛さで部長に負けた、私のドメイン。

地球は日々その暑さを増している。
本日、北海道で気温30度を越し真夏日とされた。フェーン現象というせいもあるだろうが、亜寒帯とされる北海道でそれほどの気温になるということは、恐ろしいことであることだと、誰もが皆心のそこで思っていることでは無いだろうか。
周囲の山の高さにもよるのだが、フェーン現象であっても、北海道が今までに30度を越えることがあっただろうか。データは少々古いものだが、1960-1990年間での最高気温の平均は、この6月現在まず30度を越えることはなかった。平均値であるために、上にも下にも跳びぬけていることはあったとしても、稀にだ。今回もその稀に起こったことかもしれない。しかし、6月に日本各地で30度を越えることはあってはいけないことだろう。
30度といえば、8月ごろの気温ではないか。それが今の気温であるということは、8月の気温が恐ろしくなってきた。もしかしたら私は溶けているかもしれない。

この前の年はそうではなかったが、今年は少し温暖化の影響が顕著に現れているのかもしれない。しかし、翌年その顕著さがさらに目立つようになれば、それはもはや地球にとっての「習慣的気温」だ。下がることが異常気象となる。
来年の気温に注目したい。

さて、少し前に35度以上を猛暑日とされた。もうすぐ猛暑日がやってくるだろう。
日本で一番暑い日は、38度程度なのらしいが、今年はその記録を塗り替えそうだ。
日本で40度を越えると、北海道さえもが温帯に属するようになるかもしれない。
そうなると、沖縄は熱帯になる。
気温が上がりすぎると四季が薄らぐ。四季が薄らぐと、日本独自に形成された生活文化が崩壊する恐れさえある。生活文化の崩壊ほど、日本が起こしてはならないものは無い。日本の文化は、どこにも真似のできないだろう、優美で風流な古風なものだ。
現在にそれが残っているところも少ないだろうが、それを絶滅させてしまうことは好ましくない。
熱いうちでも新たな日本の生活が築かれていくのもまた面白いのだろう。
地球温暖化は、人間の生み出した、最大の問題だろう。
可愛さで部長に負けた、私のドメイン。

インターネット上で、動画を簡単に見ることの出来るサイト、「you tube」はいまや、知らない人が少なくなるほどの有名サイトとなっている。著作権等々の問題は、いまも渦巻いている。日本のサイトであれば、確実に違法サイトであるという主張を聞いたことがある。しかし、便利で面白いものは、誰だって使用したい。
日本で、you tubeを利用禁止にしたとしても、類似した動画サービスサイトはいくらでもある。ハッキリ言って無駄であろうし、それは文化の進展を妨げていることにもなる。
というのも、you tubeが世間一般に広まって、その面白い動画が各個人サイトで紹介されるようになった。そして、テレビなどのメディアで紹介された。そうして動画サービスはネット上に広まっていった。

最近、人気なのが「ニコニコ動画」といわれるサイトであって、you tubeとは一風変わったサイトだ。you tubeを、完全に動画を見るためのサイトであるとするならば、ニコニコ動画は動画を楽しむサイトだ。
動画中にコメントを入れることができ、他人が書いたコメントが、流れてくるというものだ。動画に則したコメントもあり、実にユニークだと思う。
このため、ニコニコ動画は各方面へと伸びていったのだろう。最近では、個人サイトでyou tubeの動画と同様に紹介されているところをよく見る。

そして、そんな中、niftyが「ニフニフ動画β」を公開した。
パクリ、もといインスパイアが目立つ動画サービスである。
内容も、コメントを書き込むことが出来るなど、ニコニコ動画に近いものがある。
こうしてみると、新たな開発は、どこかに潜んでいるのだろうが、現在は発掘されていないだけのように見える。
ニコニコ動画のコメントサービスは斬新であった。そして面白い。そのため他の企業がまねして、さらに新たな機能を追加していく。
その繰り返しによって、このサービスは洗練されてゆくだろう。
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最近の日本人がつぶやくことが無くなった「そんな馬鹿な」。
もともと日本人はつぶやかなかったかもしれない。しかし、同じ意味で「マジかよ」のような言葉をつぶやくことが多いかもしれない。
意味は根本的に同じだ。本当にそのようなことが起こってもいいのだろうか。
大江山の歌で、定頼は「そんな馬鹿な」とつぶやく。確かに、意味は「これはどうしたことか」という意味であったが、やはり昔から「そんな馬鹿な」という意味合いの語は存在し、今も変化を続け使われている。
外国でも、英語に「oops」という語が存在するように、マジかよ!という意味合いの言葉がある。つまり、世界では「そんな馬鹿な」というものが沢山あるということだ。

インターネットのニュースサイトで見た。
「佑ちゃん効果で青いハンカチ馬鹿売れ!」
まず「Oops!」だ。時代が少しずれている気もするし、男の目線からだろうが、同じものを持とうとしても、それは確実に別物であると分かっている。
持っていたとしても佑ちゃんが振り向いてくれるわけでもない。しかし、流行というものだろうか、まず視覚を奪われているのだ。
現実を直視することが出来なくなってしまっている。ハンカチを買うことは決して悪いことではない。人間はどうやら周りのものに振り回される特徴を持つ。

もうひとつ、ハイキング中の中学生のそばに落雷という事だ。
自然は人に恵みを与えている反面、人間に被害を及ぼす場合が多々ある。
最近三日間、毎日のように雷鳴を聞く。全く持って恐ろしいものだ。
落雷のエネルギーを一度テレビで見たことがある。落雷に出来る限り近づけたエネルギーは、レンガのブロッグを粉砕した。
正に「Oops!」だ。電気は、効率よく使うことが難しいという。しかし、そんなエネルギーを効率よく扱うことが出来るならば、兵器やら何やら言わなくても、電気のエネルギーだけで国を滅ぼすことが出来るかもしれない。妄想だ。気にしないでほしい。

身近なマジかよ!を探してみれば、日常がひとつ面白くなるかもしれない。
また、マジかよ!ばかりなこの世界でマジかよ!を探すことは、世間に対する視野を広げることにつながるかもしれない。
可愛さで部長に負けた、私のドメイン。

何事にも、必ず始まりがある。そして、始まりがあるならば、必ず終わりがある。
しかし、人間にとって始まりを踏むことは簡単だが、終わりを踏むことが出来るものは殆どいない。もしかしたら終わりなど無いのかもしれない。
何かを極めることの出来る人間はそうはいない。人間は有限であるからだろうか、完全というものは見ない。
しかし、人々はゴールを目指そうとする。

スタートに置いて重要なことは何だろうか。
目標だ。
目標がなければ、ゴールへは一生たどり着けないだろう。あらかじめ、自分で設定した目標があってこそ、走り出せる。
マラソン選手は、次の電信柱まで走り続けるという目標を持って走るそうだ。やはり、何らかの目標があると走りやすいのだろう。
しかも、その目標は、遠くおぼろげでないほうが良い。近い目標であれば、実行と達成を味わうことが出来る。
そのために、やはり近い目標がいいだろう。

目標を達成するのには、実行と反復というプロセスを経ねばならない。
何事においてもそうだが、実際に行動し、それを何度も繰り返して磨き続けなければ目標には達成できない。
一度何かで聞いた話ではあるが、「切磋琢磨」という言葉がある。
ともに競い合ってお互いを鍛え続けるという意味の言葉だ。しかし、実際に切磋琢磨してお互いを鍛えあうよりも、自分で達成できるごく近い目標を何度も達成したほうが、力はつくというものだ。
切磋琢磨というのは、ライバルを持たなければならない。そのライバルの力量によって、人間は楽な道を選んだりも出来る。
その点、自己達成目標であれば、それは何度も何度も反復するために確実に達成させることが出来る。
論語に、「自分よりも劣ったものを友達にはするな。」というくだりがある。
ライバルを持つならば、自分よりもレベルの高いものをライバルとしてとらなければ意味が無い。そのため、切磋琢磨という言葉に矛盾が生まれるというわけだ。

貴方が人として生まれてきた時点で、あらゆることに関して、それらのスタート地点に立っている。それをどのように伸ばすかは、そのゴールを知ろうとする決意と努力による。
可愛さで部長に負けた、私のドメイン。

日本人は謝罪が苦手なのだろうか、とテレビのニュースをみて日々思う。
企業などは、イメージの低下だろうか、それとも単に謝罪が嫌いなのだろうか、不祥事があっても、発覚するまで黙っていることが多い。と、いうよりもそれがすべてだろうと思う。光が強ければ、影はより強く現れる。
先日、安倍首相の責任のなすりつけが目立った。首相にあるまじき行為であるということも聞いた。たしかに、首相らしからぬ言動である。そこまで自分の責任にしたく無いものなのか。
小泉首相は支持率は気にするなとの旨を述べた。しかし、これでは支持率を気にしているとしか言いようのないものだ。
謝罪がそれほど嫌いなのだろうか。

名誉に関するものなので、難しいといえば、難しい話だ。
謝罪が好きな人間などいないだろう。しかし、人間である以上どこかで謝らなければならない。
日本の謝罪は独特だ。
土下座という姿勢にもあるように、体をつかって、その気持ちと相手に対する誠意をあらわす、外国にはなかなか見られない謝罪方法だ。

謝罪など、言ってしまえば一瞬だ。
早めはやめの謝罪ほど、人々が許しやすいものは無い。
あとは失敗を重ねなければ、信頼を失うことはまず無いだろう。
可愛さで部長に負けた、私のドメイン。

宇宙開発が進み、大阪の人工衛星が宇宙へ打ち上げられることになっている。
宇宙は、無限の広さを持つとされており、現在でも広がっていると考えられるという論もある。宇宙は、昔より「天」という風に扱われてきた。
星があるのは天であり、亡くなっだ人は星になったと、詩的な表現をされることもしばしばある。つまり、未知が多く残るところであり、無限が存在する世界でもある。
地球で生きているうえで、無限に出会うことはできない。
しかし、宇宙という広い世界で見れば、無限はいくらでも見つけることが出来る。
たとえば、ある物体が一定の方向に力が加わっていれば、無限の速さを出すことが出来る。
空気抵抗などがないため、何かにぶつかるまで止まらない。

しかし、宇宙も開拓が進み、ゴミが散らかっている状態にある。
人間はゴミを捨てることが好きだ。地球もゴミだらけだから、そのことは一目瞭然だろう。消費なしにして生きることが出来ないからだ。

人類は日本にしか住まないという。しかし、最近新たに人類を発見できそうな星を見つけたというニュースを聞いた覚えがある。
地球外に生命体を発見することは簡単だろう。
太陽は恒星であることは皆知っているだろう。
そして、空に輝く星も、すべて恒星である。
恒星だけでも数えられないほどの数がある。地球と太陽のように、微妙な位置関係にある星など、いくつでもあるだろう。
文明の進み具合に差異はあろう。もし、その人類に出会い、違う惑星の技術を取り入れることが出来るならば、温暖化やらなんやらということもなくなるのではないだろう。

宇宙は未知の世界である。
未知とは知りえないものだ。無限の未知がある世界を既知にすることは不可能だろう。しかし、これからの宇宙開拓では、その未知たちを、限りなく100%に近い既知にできるだろう。
期待したい。
可愛さで部長に負けた、私のドメイン。

あまりの暑さに、アイスが溶けて床に落ちた。
まだ6月なので、アイスは食べていないし、まださほど暑くない。しばらく前に35度以上、つまり猛暑日になった日があった。それで溶けた日本人も多いだろう。
五月でその気温であったならば、これから先が思いやられる。8月などは、熱中症患者が多発することだろう。私は関係ないとは言ってられない気温だ。
どこにいても脱水症状になりそうな気温である。
毎年の夏、車に乗りたくない。暑苦しいからだ。そろそろそんな時期がやってきた。
四季があるというのも不便で、両極を味わうことになる。実に苦しいことだ。

さて、タイトルのどろり日本人。日本人が溶けているという表現をしたかったのだ。もちろん、この熱に溶けている人間も少なからずいるだろう。
しかし、やはり日本人は溶けている。何に溶けているかというと、日本という社会に溶けている。既に飽和するほど溶けてしまっている。何もかもが溶け込んでしまい、混濁とした日本の社会が生まれている。そのため、何がなんだか分からなくなってしまっているのだ。
日本のことについて理解している人間は、ほんの一握りである。
そう、私の恩師の話を聴いた。私も、日本のことをよく理解していない。
理解していると思った人でも、理解できていないかもしれない。

たとえば、なぜ尖閣諸島と竹島という領土で争っているのか。
たとえば、なぜ日本はアメリカとの友好関係を持っているのか。
それも、ちゃんとした友好関係を保てているのだろうか。
日本はなぜ北朝鮮と対立しているのか。
日本は、なぜこのような独特の文化を持つのだろうか。
分からないことがおおい。
答えられる人には答えられるだろう。実際、領土問題なども、様々な要因が絡み合って、現在にいたっている。細かなことを過去に行わなかったから、領土問題となっているのだ。
少なくとも、飽和してしまった日本人には理解が難しい。
私も、飽和してしまっているために、外国からの視点と、日本人の視点の相違がいまいちつかみにくい。

自分を客観的にみることは、最も難しいのではないだろうかと思う。
なぜ日本がここにあり、なぜ日本は攻撃に使う軍隊を持たず、なぜ日本は戦争を放棄し、なぜ日本は内閣制であり、なぜ日本は天皇制をとり、なぜ日本はハッキリしないのか。
それらをすべて導き出し、日本という国を改善することは、非常に難しい。
なにも、日本だけが飽和した国ではない。

思えば、世界は飽和していたのだ。
可愛さで部長に負けた、私のドメイン。

他人に対しての優しさは、この日本のみならず、世界で生きていくうえでは最も必要ではないのだろうかと思う。やさしさにかけた人間は、他人に嫌われやすい。
そう考えれば、やさしさを欠かさない人は世渡り上手なのではないだろうかと思う。
私が見た限りでは、陰口をたたく人間ほど、人には嫌われていたりする。
人を嫌うということは、その対象に嫌われるということでもある。なぜなら、貴方は嫌いな人に対して、よく接するだろうか。
私なら、嫌いな人には何もしない。無視が一番良い。そうするために嫌われるのだろうと思う。つまり、どの人にも同等に接することが出来る人が、嫌われない人間であると思うのだ。

また、出来るだけ人に迷惑をかけない人間も嫌われにくい。
「あの人は優しいから」という印象が相手に伝わるからだ。そうして生きていけば楽だろう。迷惑になる行動を起こさなければいいだけで、人気ものになれる。
そう考えれば、他人にある程度の距離を置いて相手をすることが最も良い位置にあるといえるだろう。
もちろんそれに問題が無いわけではない。何人も仲良くしたい人には丁度いいだろうと思う。

やさしさを他人に与えることは素晴らしいことである。しかし、やさしさを与えすぎることもまたかえってよくない。
「過ぎたるは猶及ばざるが如し」という言葉がある。
何でもやりすぎるということは、やり足らないに等しいということだ。つまり、やさしさを与えすぎるということは、迷惑を与える事と同じである。
その境目を歩むのが、他人とうまく付き合うことの出来る線である。

仏教のもととなった、ブッダはやりすぎる事もやり足りないことも嫌った。
いくら厳しい修行であっても、それは修行をしないということを、修行中に悟ったという。それから、楽ではないが苦しくない修行を続け、悟りを開いたと聞いた。
つまり「中道」という道だ。

それは、どのような道にも通用する、偉大なものではないだろうか。
境目を見つけることは、何よりも難しいだろう。いくらかの「テスト」を行わなければならない。時には、それが裏目に出て嫌われることもあるだろう。
しかし、経験の無い境界線ほど揺らぎやすいものは無い。
細い細い線上での「維持」は難しいだろうが、それが最も他人に対して行為を持たれる位置なのであろうと思う。
可愛さで部長に負けた、私のドメイン。

電池の切れた携帯電話。
プレイヤーの無いDVD。
そしてペンの無い紙。
これらは非常に便利なものが一部欠ければ役に立たなくなるという例だ。
また、両者がそろっているのが「常識」とされているものたちだ。

今までは常識でなかったものが最近常識となりつつあるのは恐ろしいものだ。
文化の変化というのだろうか、すべてが常識になることほど恐ろしいものがある。
常識になれば、それ以外が非常識になってしまう。つまりは、無くてはならない存在になってしまうということだ。
無くてはならないというものは出来る限り人間にとって少なくなければならない。
でないと生きていけないからだ。あれやこれや、すべてが必要となってしまえば、それをすべて持っていかなければならないからだ。

電池の切れた携帯電話、プレーヤーの無いDVD、ペンの無い紙。
それらは、すべてを必要とした人間のたとえとしても使うことが出来る。
役に立たないものは捨てられてしまう。
捨てられるような人間になってしまってはダメだ。
ペンを持たなくても書ける紙を持てばよい。
DVDプレイヤーが無いならハードディスクを持ったプレイヤーを持てばよい。
電池が切れたならば充電すればよい。
すべて、循環が可能であるのだ。
役に立たないは、いずれ役に立つということだ。
可愛さで部長に負けた、私のドメイン。

最近世間で様々なものが無料化されているものをよく見る。
最近では、漫画雑誌が無料化されていたものがあった。無料で配布されているのには、理由があり、それを成り立たせるための裏側ももちろん存在する。
そういったものは、漫画等の副文化的な扱いはされず、新たな広告ビジネスであるということだ。
最近の広告ビジネスは、広いところまで浸透し、インターネットのサイトにも広告が導入されたりされている。
今回、その無料漫画も広告収入によって成り立っている。無料で配布されるために、消費者の手に渡りやすい。つまり、広告費が高いともいえる。

無料化されているのは、何も漫画だけではない。一部の大学などでは、コピーが無料化されている。これは、裏面に広告が印刷されるからであり、大学生は重宝しているようだ。
無料化されると、何でも消費者が使用しやすくなる。
そのため、広告からの消費が活発になり、経済が安定しやすくなる。
さらに、最近無料化されたもので、DVDがある。一部のローソンや、レンタルビデオショップで配布されているのだが、「持って帰りやすい」と消費者に人気だ。
気になった広告を選択し、クリックできるので広告を見るのも簡単で納得だ。

しかし、無料であるがゆえに問題もある。
特に問題は無料の漫画雑誌ではそれが顕著であろうと思う。
それは、ゴミが増えてしまうということだ。無料であるということで、簡単に捨てられてしまう。無料の漫画雑誌を後生大事に取っておくものは少ないだろう。
有料の漫画雑誌でも捨てられてしまうこの時代、なおさらだ。

なんでも無料化してしまうということは、有料のものに手が伸びにくくなってしまうということでもある。無料のもので事を済まそうとするからだ。
環境面から見るとそれは節約とも取れるだろうが、経済的にはそうは行かない。
やはり、無料化にもバランスというものが必要だろう。
可愛さで部長に負けた、私のドメイン。