この前、電車に乗ったとき、携帯電話を横にして画面を除いているおじさんがいた。一瞬戸惑ったが、「あぁ、ワンセグか」と納得した。私も、やはりまだ若者であるな、と思った出来事だった。
と、まぁそんな当然のような事は置いておこう。
見慣れていないと、非常に奇妙な光景だが、いずれ慣れてきて、当然のように感じる日も遠くはないだろう。
携帯電話がテレビになる、と誰が予想しただろうか。
カラー液晶になってからは、流石にテレビ化は簡単に予想できたかもしれない。しかし、初期の携帯電話、ショルダーバッグのような巨大さを誇っていたものでは、誰も予想しなかった。そもそも、今当然の如くついているカメラでさえも、予想できなかったことだ。
高機能を誇る携帯だ。
数え上げることも難しいほどの機能がそろっている携帯。それを使いこなす若者。
鬼に金棒、といったところだろうか。しかし、それによる弊害が無ければ、という話だ。
まず、何のためにテレビがついているのか。
テレビはそもそも、情報の伝達手段として誕生した。それも、現在では落ちぶれてしまった。
バラエティ番組がテレビ欄を埋め尽くす時代となっている。
そうなると、情報伝達というよりも、娯楽のアイテムとなっていることだなぁ、と思う。
しかし、そう考えると、携帯電話もなかなか娯楽のアイテムとして成長してきたのだな、と思う。考えてみれば、ゲームがついていたり、音楽プレイヤーを搭載してみたり…
携帯電話が、現在の学力を低下させている一面も無いことは無いだろう。
電車内の人間の行動は雑談か、読書か、携帯電話を操作する、のいずれかであろうと思う。
一日における、携帯電話の操作時間が長ければ、学力が低下するのは分かりきったことだ。
但し、携帯電話で調べ物をするものもいるので、それは一概には言えないが…
携帯電話は、もっと知識性を兼ね備えていてもいいと思う。
現在の携帯電話は、少し娯楽性に特化しすぎている。
可愛さで部長に負けた、私のドメイン。と、まぁそんな当然のような事は置いておこう。
見慣れていないと、非常に奇妙な光景だが、いずれ慣れてきて、当然のように感じる日も遠くはないだろう。
携帯電話がテレビになる、と誰が予想しただろうか。
カラー液晶になってからは、流石にテレビ化は簡単に予想できたかもしれない。しかし、初期の携帯電話、ショルダーバッグのような巨大さを誇っていたものでは、誰も予想しなかった。そもそも、今当然の如くついているカメラでさえも、予想できなかったことだ。
高機能を誇る携帯だ。
数え上げることも難しいほどの機能がそろっている携帯。それを使いこなす若者。
鬼に金棒、といったところだろうか。しかし、それによる弊害が無ければ、という話だ。
まず、何のためにテレビがついているのか。
テレビはそもそも、情報の伝達手段として誕生した。それも、現在では落ちぶれてしまった。
バラエティ番組がテレビ欄を埋め尽くす時代となっている。
そうなると、情報伝達というよりも、娯楽のアイテムとなっていることだなぁ、と思う。
しかし、そう考えると、携帯電話もなかなか娯楽のアイテムとして成長してきたのだな、と思う。考えてみれば、ゲームがついていたり、音楽プレイヤーを搭載してみたり…
携帯電話が、現在の学力を低下させている一面も無いことは無いだろう。
電車内の人間の行動は雑談か、読書か、携帯電話を操作する、のいずれかであろうと思う。
一日における、携帯電話の操作時間が長ければ、学力が低下するのは分かりきったことだ。
但し、携帯電話で調べ物をするものもいるので、それは一概には言えないが…
携帯電話は、もっと知識性を兼ね備えていてもいいと思う。
現在の携帯電話は、少し娯楽性に特化しすぎている。
人間哲学にとっての「生と死」は永遠のテーマである。
人はなぜ死ぬのか、なぜ生きるのか。そして、なぜ死ななければならないのか。
誰も完全に明かすことの出来ない、暗闇の中にあるテーマなのである。
なぜ暗闇の中にあるかというと、思うに人間は「意味」という概念にとらわれすぎていることにあるのではないだろうか。
そのため、辞書があるのだ。人間は、未知のものの意味を知ることによって、はじめてそれを「理解した」と捕らえるためだろう。
つまり、最終的には「生と死」は意味が無いのではないだろうか。
なぜ私は生きているのか?私はなぜ死ぬのか?
決まっているではないか。
あなたは今生きているのであり、死ぬから死ぬのだ。
答えはこれ以上でも以下でもない。
さて、今回考えるのは、生と死にもっとも近いテーマだ。
人はなぜ他人を殺すのか。なぜ殺されるのか。
それには、人間の本質的な性格もあるだろう。
では、なぜ人を殺してはいけないのだろうか。
まず、人間は本質的に他を殺す、ということについてだが、ここは食物連鎖上の話ではなく、ヒトとしての他人を殺すというところにある。
我々は、学名を「ホモ:サピエンス」という。
現在判明している中では、「アウストラロピテクス」をはじめに、人間は進化してきた。その中で、私達が生きている理由は簡単だ。
他の類人猿を殺戮してきたからだ。
つまり、ホモ:サピエンスは、最も知能が高く、最も凶暴であったのだ。
だから、殺人がなくならないのはある意味仕方の無いことなのだ。
確かにそれだから他人を殺していいというわけではないのだが。
さてさて、ここでひとつ疑問が浮かぶ。
タイトルにもなっているように、
「なぜ、人を殺してはいけないのか」
そういう質問をされたとしてみよう。
まず第一にこういう考えがある。
法律で定められているから。ということ。
しかし、これは解答の第一段階でしかない。
法律というものは、その国の文化と風土の上に成り立つものだ。そのため、なぜ法律で定められているか、という疑問もまた浮かぶ。
そして、第二段階の解答が浮かばない。
「倫理的に間違っている。」「その周囲の人々を悲しませてしまうから。」
しかし、これはやはり本質的な解答ではない。
そうなってしまうと、「駄目なものはダメなのだ。」「くだらない質問をするな。」という子供じみた発言となってしまう。
これは非常に嘆かわしい話だ。
だったらなぜ人を殺してはいけないのか。
少し前に流行ったものだが、「DEATH NOTE」という漫画があった。
あれは犯罪者を戒めるということが書かれていたのだが、もし、一般人がデスノートを持ったとき、一体どうなるのだろうか。
しかし、こう考えてみたとき、よく考えてみる。
殺人の罪というものは、刑法199条にあるのだが、その条文を見て分かるように他人を殺してはいけないという、直接的に書いたものはないのだ。
殺したものは〜という、間接的規制のみである。
だから、もしかしたら何も答えないことが最大の解答なのでは無いだろうか。
そしてきっと、一度殺されてみれば分かる解答なのだと思う。
どうしても、答えなければならないというのなら、疑問でかえし、断定的な解答を下さなければよいのではないだろうか。
「貴方は、殺されたいのですか?」
可愛さで部長に負けた、私のドメイン。人はなぜ死ぬのか、なぜ生きるのか。そして、なぜ死ななければならないのか。
誰も完全に明かすことの出来ない、暗闇の中にあるテーマなのである。
なぜ暗闇の中にあるかというと、思うに人間は「意味」という概念にとらわれすぎていることにあるのではないだろうか。
そのため、辞書があるのだ。人間は、未知のものの意味を知ることによって、はじめてそれを「理解した」と捕らえるためだろう。
つまり、最終的には「生と死」は意味が無いのではないだろうか。
なぜ私は生きているのか?私はなぜ死ぬのか?
決まっているではないか。
あなたは今生きているのであり、死ぬから死ぬのだ。
答えはこれ以上でも以下でもない。
さて、今回考えるのは、生と死にもっとも近いテーマだ。
人はなぜ他人を殺すのか。なぜ殺されるのか。
それには、人間の本質的な性格もあるだろう。
では、なぜ人を殺してはいけないのだろうか。
まず、人間は本質的に他を殺す、ということについてだが、ここは食物連鎖上の話ではなく、ヒトとしての他人を殺すというところにある。
我々は、学名を「ホモ:サピエンス」という。
現在判明している中では、「アウストラロピテクス」をはじめに、人間は進化してきた。その中で、私達が生きている理由は簡単だ。
他の類人猿を殺戮してきたからだ。
つまり、ホモ:サピエンスは、最も知能が高く、最も凶暴であったのだ。
だから、殺人がなくならないのはある意味仕方の無いことなのだ。
確かにそれだから他人を殺していいというわけではないのだが。
さてさて、ここでひとつ疑問が浮かぶ。
タイトルにもなっているように、
「なぜ、人を殺してはいけないのか」
そういう質問をされたとしてみよう。
まず第一にこういう考えがある。
法律で定められているから。ということ。
しかし、これは解答の第一段階でしかない。
法律というものは、その国の文化と風土の上に成り立つものだ。そのため、なぜ法律で定められているか、という疑問もまた浮かぶ。
そして、第二段階の解答が浮かばない。
「倫理的に間違っている。」「その周囲の人々を悲しませてしまうから。」
しかし、これはやはり本質的な解答ではない。
そうなってしまうと、「駄目なものはダメなのだ。」「くだらない質問をするな。」という子供じみた発言となってしまう。
これは非常に嘆かわしい話だ。
だったらなぜ人を殺してはいけないのか。
少し前に流行ったものだが、「DEATH NOTE」という漫画があった。
あれは犯罪者を戒めるということが書かれていたのだが、もし、一般人がデスノートを持ったとき、一体どうなるのだろうか。
しかし、こう考えてみたとき、よく考えてみる。
殺人の罪というものは、刑法199条にあるのだが、その条文を見て分かるように他人を殺してはいけないという、直接的に書いたものはないのだ。
殺したものは〜という、間接的規制のみである。
だから、もしかしたら何も答えないことが最大の解答なのでは無いだろうか。
そしてきっと、一度殺されてみれば分かる解答なのだと思う。
どうしても、答えなければならないというのなら、疑問でかえし、断定的な解答を下さなければよいのではないだろうか。
「貴方は、殺されたいのですか?」
ペーパーといえば、ペーパードライバーが思いうかぶ。
ペーパードライバーとは、一応運転免許証は所持しているが、実際に自動車を運転することはない者。又は、日常生活において運転経験がない者を指す。
確かに、このペーパードライバーの運転は危険だ。
しかし、国家を滅ぼすには及ばない。
そもそも、ここで述べる「ペーパー」はペーパードライバーのペーパーではない。
このペーパーは「試験」という意味でのペーパーだ。
ではなぜ「ペーパー」が国家を滅ぼすのだろうか。
少し歴史を振り返ってみよう。
以前、日本が盛んに戦争を行っていた時代があった。
その末期のこと。
太平洋戦争をしていた時代あたりのことである。
その当時、戦争が継続されたのは、軍事政権と何も言わない天皇のためだ。
そして、戦争を動かしていたのは、司令部。
つまり、実質国を滅ぼした責任は、司令部にある。
司令部の人間がどのように作られてきたのか。それを見てみると、このタイトルも納得いくだろうと思う。
陸軍を例に挙げてみよう。
陸軍に行くために、まず士官学校に入る。
士官学校で様々な勉強をして、そこの上位が陸軍大学に入る。
陸軍大学の上位が、陸軍の参謀に入る、というルートを踏む。
つまり、士官学校から選りに選られた人材が、司令部にいることになる。
これらは、試験に勝ち抜いてきたものたちなのだ。
と、言うことは、試験秀才が軍隊を動かし、世界に敗北し、日本を崩した。
崩れたために現在の平和があると考えてもよさそうであるが、当時は。
そう、あくまでも「当時は」。
「歴史は繰り返す」という言葉があるように、現在もコレが行われている。
現在の日本政府の官僚になろうとすれば、大体のものは東京大学の法学部へ行く。
東京大学の法学部に行こうとすれば、試験秀才でなければなら無い。
そういうことだ。
つまり、国家が崩れるという歴史がもう一度繰り返されようとしている。
崩れていく様は、今の政府を見れば一目瞭然だ。
崩れて平和になった過去は、不幸中の幸いといったところだろうが、
平和な今が崩れたら、一体社会はどうなってしまうのだろうか。
私は今警鐘を鳴らしているワケではない。
警鐘は今もなり続けているのだが、どうやら政府の肥えた耳には響かないようだ。
可愛さで部長に負けた、私のドメイン。ペーパードライバーとは、一応運転免許証は所持しているが、実際に自動車を運転することはない者。又は、日常生活において運転経験がない者を指す。
確かに、このペーパードライバーの運転は危険だ。
しかし、国家を滅ぼすには及ばない。
そもそも、ここで述べる「ペーパー」はペーパードライバーのペーパーではない。
このペーパーは「試験」という意味でのペーパーだ。
ではなぜ「ペーパー」が国家を滅ぼすのだろうか。
少し歴史を振り返ってみよう。
以前、日本が盛んに戦争を行っていた時代があった。
その末期のこと。
太平洋戦争をしていた時代あたりのことである。
その当時、戦争が継続されたのは、軍事政権と何も言わない天皇のためだ。
そして、戦争を動かしていたのは、司令部。
つまり、実質国を滅ぼした責任は、司令部にある。
司令部の人間がどのように作られてきたのか。それを見てみると、このタイトルも納得いくだろうと思う。
陸軍を例に挙げてみよう。
陸軍に行くために、まず士官学校に入る。
士官学校で様々な勉強をして、そこの上位が陸軍大学に入る。
陸軍大学の上位が、陸軍の参謀に入る、というルートを踏む。
つまり、士官学校から選りに選られた人材が、司令部にいることになる。
これらは、試験に勝ち抜いてきたものたちなのだ。
と、言うことは、試験秀才が軍隊を動かし、世界に敗北し、日本を崩した。
崩れたために現在の平和があると考えてもよさそうであるが、当時は。
そう、あくまでも「当時は」。
「歴史は繰り返す」という言葉があるように、現在もコレが行われている。
現在の日本政府の官僚になろうとすれば、大体のものは東京大学の法学部へ行く。
東京大学の法学部に行こうとすれば、試験秀才でなければなら無い。
そういうことだ。
つまり、国家が崩れるという歴史がもう一度繰り返されようとしている。
崩れていく様は、今の政府を見れば一目瞭然だ。
崩れて平和になった過去は、不幸中の幸いといったところだろうが、
平和な今が崩れたら、一体社会はどうなってしまうのだろうか。
私は今警鐘を鳴らしているワケではない。
警鐘は今もなり続けているのだが、どうやら政府の肥えた耳には響かないようだ。